プエルトリコに行った話①


プエルトリコに行ったのは、まだアメリカに住んでいた2017年9月の話です。

プエルトリコのイメージ

日本にいてプエルトリコについて聞く機会はほとんどないと思いますが、
プエルトリコというとどのようなイメージでしょうか?
お酒の好きな方ですと、ラム酒のバカルディの産地。
野球の好きな方だと、元大洋ホエールズのポンセ選手、巨人のゴンザレス選手の
出身地、そして音楽好きの方は、以前大ヒットしたDespacitoを歌っている歌手のルイス・フォンシの出身地と思い浮かべる方はいると思いますが、アメリカ人のイメージするプエルトリコは典型的な「ザ・ビーチリゾート」といったもので、当時通っていた格闘技道場の先生も夏休み前に「プエルトリコでゆっくり楽しむのも良いかもしれないが、練習にも来てほしい」と練習後の全体の連絡事項で話すほどいわゆるリゾートなのです。

アメリカ領

プエルトリコは、アメリカ本土からかなり離れており、ニューヨークからは飛行機で5時間ほどの距離があるが、「プエルトリコ自治連邦区」という名前で、アメリカ領で、アメリカから行くのにパスポートは不要だった。
(とはいえ、私はアメリカ国籍ではなかったので念のためパスポートを持参していったが一切使う機会はなかった。)

ニューヨークからプエルトリコ
ニューヨークからプエルトリコ

プエルトリコへの道のり

私の住んでいたフィラデルフィアからプエルトリコの首都サンファンまでは、ニューヨークから行くのよりやや近く4時間程度の距離だった。
金曜日に仕事を終えて夜10時にフィラデルフィアを出発し、夜中2時過ぎにサンファンに着くスケジュールだった。
遅い時間になったのは訳があり、確か100ドル前後で往復の飛行機を取ることができるLCCのフロンティアエアラインを予約していたため、そんな夜に着く便になってしまった。
海外のLCCといえば、大丈夫かと心配になる方もいらっしゃるかも知れませんが、座席を事前に指定することはできないものの、飛行機自体は時間通りに出発するし席は狭くもないしで全く何の問題もなく旅をすることができた。

サンファンの街並み

プエルトリコは、コロンブスによる植民地化で元々はスペイン領だったため、
街並みはヨーロッパ風の建物が立ち並んでおり、非常にカラフルで美しい街並みだった。

城壁から見えるカリブ海
城壁から見えるカリブ海

 

サン・フェリペ・デル・モロ要塞

美しい街並みが広がるサンファンの中にあっても、このサン・フェリペ・デル・モロ要塞は
ひと際印象に残っている。
この要塞の周囲に広がっている広場の広大さ、そして要塞の大きさ、荘厳さに加えて、
要塞の城壁から見るカリブ海とそれにマッチしたサンファンの街並みが何とも言えない美しさで、
城壁から街の風景を見た時は思わず息を飲みそうになった。
ただ、美しいだけではなく、この要塞にはヨーロッパ列強同市のこんな壮絶な歴史も隠されている。
(Wikipediaより)

攻撃の対象
植民地時代、サン・フアン港はスペインとスペイン領アメリカを結ぶ中継地の役割を果たし、スペインの航路システム上において重要な港であった。しかし、それ故に列強による攻撃を受けることも多かった。

イギリスは1595年と1598年の2回にわたってサン・フアンを攻撃した。最初の攻撃を受けた際には防衛に成功したが、2度目には占領された。しかし指揮官の疲弊と病気により、イギリスの占領は長くは続かなかった。次いで1625年、このサンフアンの町を攻撃したのはオランダであった。その時にはサン・フェリペ・デル・モーロ砦がオランダの軍勢の前に立ちはだかり、防衛に成功した。1797年にはイギリスが三たび攻撃を仕掛けてきたが、その時も防衛した。このような状況の中で、18世紀後半から19世紀初頭にかけて、サン・フアンはスペインとの自由貿易を通じて成長を続けた。

1898年、アメリカ合衆国は米西戦争中にサン・フアンを爆撃し、占領した。アメリカ合衆国はこの戦争に勝利したことでプエルト・リコを領土にし、スペインの統治は終わりを告げた。

合衆国、プエルトリコの国旗
合衆国、プエルトリコの国旗

 

城壁から望むサンファンの街並
城壁から望むサンファンの街並

 

城壁から見えるカリブ海2
城壁から見えるカリブ海

 

要塞周囲の広場
要塞周囲の広場

 

城壁から見えるカリブ海
城壁から見えるカリブ海

 

要塞だけに砲弾も
要塞だけに砲弾も

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